音楽とか文化とか

その時々に考えたことをとりあえずメモしています

キャバクラ・ピアノ生演奏事件の判決文を読む

しばらく前にピアノ生演奏していたキャバクラが著作権侵害で訴えられた事件が報道されました。

  キャバクラ:生演奏「著作権を侵害」 東京地裁判決(6月26日毎日新聞)

 

知財事件の判決文は、わりとすぐに最高裁ホームページの知財判例集に掲載されます。この事件もすでに判決文がアップされており、事件について知ることができます。

  平成24年(ワ)第32339号 著作権侵害差止等請求事件

 

今回は、この判決の背景を読み取れるかを試みます。


1 忘れがちな前提

まず、全国のカラオケ店の9割、生演奏店の7割は、きちんと著作権の手続きをしている、ということ(下のリンク参照)が前提にあります。手続きをしていないお店の中には、オープン間もないお店も相応にあるでしょうし、原告JASRACの催告に応じず、長期にわたって手続きしていないお店と言うのは、全体から見れば非常にレアと思われます。この事件の被告らは、確信的(=故意)に長期にわたり著作権侵害をしていたのではないでしょうか。 

 JASRACに突撃取材!! 著作物使用料の徴収方法と分配方法の真実

 

2 被告らの特徴 

まずは、被告らについてみていきましょう。本事件の被告は法人4社のみ。これは非常に不自然な印象を受けました。

通常、不法行為で法人相手に裁判を起こす場合、取締役を被告に加えます。故意の不法行為と言うのは、今回もそうですが、犯罪にあたる悪質なケースもあります。そして法人が不法行為をする場合、法人そのものが隠れみのである可能性が非常に高い。なので、法人を盾に親玉が逃げるリスクを避けるため、取締役を被告に加えるわけです。

原告側がこれら4社の取締役を被告に入れてないのは、おそらく取締役が「真のオーナー」ではなかったり、有効な資産を何も保有していないと知ったからのように思います。

この事件では、訴訟に先立ち、演奏禁止の仮処分命令が裁判所から出ています。ここからわかるのは、被告らは本訴の前の仮処分事件でも和解勧告に応じなかったということ。和解に応じず判決になれば、判例データベースに掲載され、衆目にさらされます。でも、会社の信用など被告らには重要ではないのでしょう。どうも被告ら法人そのものが債務逃れの意図であったように感じざるを得ません。

3 原告の意図

債権者に尻尾をつかませない、という意味で被告らは「プロ」だったのだろうと思います。このような状況だと、支払い命令の判決だけでは、金銭債権の回収は実質的に不能と予想されます。

それに対抗する方便として、とりあえず侵害差止の判決をもらい、それでも判決に従わない場合に強制執行をとる手法が考えられますが、このケースも原告にはそういう意図があったのかもしれません。

 

4 判決の特徴

この判決、ざっと読んだ限り、2点ばかり特徴的だと感じました。

(1)スタンダード曲のジャズ演奏を「即興の自作オリジナル曲の演奏だ」と主張

判決文16頁の記述を見ていると、"被告らは,ピアニストの多くは本件各店舗においてジャズを自己流にアレンジして即興演奏をし,演奏されるのは原告管理楽曲の二次的著作物ではなく,全く別の新たな著作物であったと主張"したことがわかります。

これに対し裁判所は、"演奏者が原曲をそのまま,あるいはアレンジを加えて演奏した後にアドリブを加えていくとの趣旨を述べていることからすると,ピアニストが演奏した原告管理楽曲については,部分的に原曲そのまま,あるいは編曲したその二次的著作物が演奏されたものと認められる。被告らの上記主張は,採用することができない。"と判じています。

スタンダード(既成曲)演奏でも「俺のオリジナルだ」と言い張れば良い、という程度の低いブログ記事を見たことがありましたが、それを裁判所で主張していたわけですね。結局、裁判所は証拠をもとに、事実と異なる旨を判じています。

(2)親会社の訴追はムズかしい。

原告側は、いくつかの証拠をもって、親会社らしき法人の共同不法行為を主張したようですが、裁判所は認容しませんでした。証拠収集のむずかしさを感じました(判決文18頁)。

音楽出版社を知る(2)

 前回は音楽出版社のアウトラインについて触れました。今回は音楽出版社著作権者となることが、なぜ音楽業界で一般化したかを考えてみようと思います。

音楽作家(作詞家・作曲家など)は通常、創作や演奏、録音といった制作段階までが仕事の領分です。出来上がった作品を世に広めたり、売上を管理すること、つまり作品の活用やビジネス展開については、専門のスタッフにまかせたほうが、効率が良さそうです。そもそも契約などの法律行為や経理などのビジネススキルは、制作のスキルとはかなり異質なものです。音楽作家が全てひとりでこなすのは困難です。

うまくスタッフを使って作品をプロモートするには、スタッフに契約当事者となる権限を付与することが不可欠になります。この権限の実体こそ、著作権に他なりません。このため、音楽業界では、作家から音楽出版社著作権を譲渡し、作品利用に関する契約その他プロモート活動を音楽出版社にゆだねる慣習が一般的になっています。音楽出版社が譲渡により自ら「著作権者」の地位を得るのは、このようにビジネス展開する上で不可欠な「当事者権限」を持つため、という理由が最大のようです。

しかし音楽作家にしてみれば、虎の子の著作権をただ譲渡してしまうのは大きな損失です。そのため、音楽作家と音楽出版社は、単なる譲渡ではなく、音楽作家に配慮した業界特有の契約を結びます。大まかな主旨は以下2点になります。

  1 著作権そのものは音楽出版社に譲渡し権限を与える。
  2 そのかわり、音楽作家は作品から得られる収益の分配権を得る。

この契約、業界では短く「著作権契約」と呼びならわされていますが、体をあらわすには「分配請求権付与特約付著作権譲渡契約」という風に表されると思います。長ったらしくて呼びづらいですね。でも「著作権契約」だけでは契約の実態はわかりません。単なる譲渡契約なのか、分配請求権が付与されるのか。この点は、とても大きな違いです。

この「著作権契約」が平和裏にスタートし奏功すると、作品が広くプロモートされ、音楽作家、プロデューサー、スタッフ、作品にかかわる全ての人が潤うことになります。音楽出版社著作権者となることが一般化した理由のもう一つは、創作のプロとビジネスのプロが協業しつつ、双方にメリットとなる契約形態が一般化し、それが音楽作家の立場からしても不利ではないことが実証されてきたからではないか、と私は思います。

余談をひとつ。一般公開しているJASRACのデータベース J-WIDを見ると顕著にわかるのですが、商用利用が想定されるタイプの音楽、つまりプロモートが必然となるような作品は、かなりの頻度で音楽出版社がついています。
片や、採算を度外視して創作されたような作品には、音楽出版社がついてないことが多い。

採算を度外視した作品には、音楽作家の純粋な発意があるように見受けます。片や音楽出版社がついている作品は、プロデューサーやスタッフのみならず、リスナーまでを含めた多くの人に恩恵を与える大きな力があるように感じられます。どちらも音楽の素晴らしさに変わりないのはいうまでもありません。

 

 

音楽出版社を知る (1)

一般の方には聞きなれない「音楽出版社」。よく楽譜出版社と混同されるのですが、全く別のものです。音楽出版社は、手短かにいえば、作詞家・作曲家などのパートナーとして、彼らの著作権を管理する、というのが本来の機能です。

音楽出版社が一般に分かりにくい原因は、「出版」という言葉から、どうしても印刷っぽいイメージに囚われてしまうことと、「著作権の管理」の「管理」という言葉が抽象的で、具体的に何をするかが思い浮かばないから、と私は推測しています。

私は、あえて一言でいえば、音楽出版社は「出資者と作者の分電盤」だと思っています。

この考えを人に伝えると、特に若い音楽関係者の方が「それはおかしい」と言ったりします。著作権は作った本人のものなのに、なぜ他人に分け前をやらなきゃいけないのか、という主張が込められています。

この主張には、私は発明と特許の例を使って説明するようにしています。

発明は主に、企業の研究所などで生み出されます。つまり発明の多くは企業などの研究費(資金)をもとに、複数スタッフの共働により成り立っています。

しかし特許権は制度上、発明者個人に属することになります。そうすると、発明者が転職してしまうと、せっかくの特許が、発明者ごとよそに移ってしまうことになります。これでは企業は困ってしまいます。そのため、従業者の発明については、企業が一定の権利を得るような仕組みがあります。

音楽はひとりで創作することが多く、創作過程では発明ほどに元手はかかりません。しかし流通させるとなると話は別。録音費用、広告費用、プレス費、在庫費、人件費その他諸々がかかります。もちろんその資金を出した企業などは、当然投下資本を回収せねばなりません。

音楽出版社は、出資やプロモートを担った企業が、その作品について一定の権利を得るための仕組みなんです、という具合に私は説明しています。

音楽出版社が担うもうひとつの大事な機能は、ビジネスに弱い音楽作家をサポートする、という点が非常に大きいと思います。これも発明と比較するとよくわかります。

発明は、発明者本人が面倒くさい出願書類を作らねばなりません。つまり発明者は事務処理について早くからトレーニングを積んでいます。方や音楽作家は、事務処理やビジネスについて興味が薄いことが多いようです。善良な音楽出版社は、こういったビジネスの勉強が嫌いな音楽作家をの面倒を、実にこまめに見ていたりします。

自己愛が強い若い音楽クリエイターが「俺は俺のやり方でいく」といわれるケースも多く見かけますが、大事な契約で良くポカをしていたり、契約書を作ることすら面倒くさがって、後から大きなトラブルに見舞われるケースをよく見聞きします。これなども、善良な音楽出版社がサポートしていれば、未然に防ぐことができます。

このように音楽出版社は、音楽がうまく世に広まるための仕組みとして、非常に重責を担っていると私は思うのですが、あまり実態が知られておらず、研究もされていません。

私は多くの音楽好きの方に、この音楽出版社について知っていただきたいと思っています。

人知れず進む文化の衰退-録音コストの漸減について

 ブロードバンドとファイル圧縮の技術進歩が、音楽流通の世界にパラダイム・シフトをもたらしたことは間違いありません。そして、無料で情報を享受できるインターネットの世界では、有料サービスがうまく行かないのは、当然の成り行きだったのでしょう。

 このような状況、短絡的に「無料でラッキー!」などと喜んでいるうちに、文化の痩せ細りはヒタヒタと進行していると私は思うのです。

 痩せ細りの悲鳴が一般にはあまり聞こえないのは、文化を売る人たち、つまり書籍出版社やレコード会社、映画会社などが「夢のプレゼンテーター」であり、夢のない話を、自らファンには語れないから、ではないでしょうか。


 音楽業界では、録音の現場で、その傾向が顕著と感じます。

 プロの録音には当然コストがかかります。ミュージシャンやエンジニアの人件費、録音スタジオの賃料、ミックスダウンやポスト・プロダクションの費用にはじまり、打ち合わせ費用やアゴ足代まで含めると、結構な金額になります。良い作品を仕上げようと思えば、費用がかかるのは言わずもがな、です。

 これらの経費、レコード会社が製作主体であれば、過去に売れたレコードの収益から、次のレコード制作に充てがわれます。だからレコードの売り上げが減れば、当然に次の作品の製作コストも減ります。制作コストの減少は、当たり前に作品のクオリティに影響します。
 でも夢の売人であるレコード会社は、そんな夢のない話を口にしてはならないのでしょう。自分の首を一層締めるだけです。

 40代以上の方には共感いただけると思いますが、かつて、生オケをバックにした歌番組が、毎週放送された時代がありました。オケは、メンバーの数だけ人件費がかかります。その時代、音楽業界にはそれだけの経済的体力があったということでしょう。
 昨今はダンサーが多くなりましたが、ダンサーの平均年齢は低く、人件費はオケより安いことは明らかです。また、ヒップホップではDJもステージでパフォーマンス?しますが、これなどはコストダウンには大きく貢献すると思います。何気ない変化の背景には、やむを得ないコストダウンが潜んでいるのかもしれません。

 このような状況を「チープな製作コストが、音楽をつまらなくする」などと批判するだけで、何が生まれるのでしょうか。負のスパイラルに陥った経験は、どなたにでもあると思います。抜け出す苦しみは並大抵ではない。
 
 文化産業は「産みの愉しみ」「育ての愉しみ」を多くの人と「共感」するための使者みたいなもの私は思います。私は文化産業の裏方の裏方、太陽系の辺縁みたいなところで、文化産業を見つめる仕事をしていますが、自らの勤めのみならず、30年来の音楽ファンのひとりとして、負のスパイラルを抜け出す新しい知恵、ビジネスモデルみたいなものを考えていく必要を感じています。

インターネットの暗黒面「匿名の闇」について

インターネットが多くの人の生活に定着したのは、15年程前ではないかと思います。

 私の場合インターネット対応のPCを買ったのが97年。そして99年頃だったか、職場の若手が「MP3(圧縮音楽ファイル)がすごい勢いですよ。CD買う必要無くなっちゃいますね」と言ったのを覚えています。

 MP3に限らず、あらゆる情報が「圧縮」と「ブロードバンド」の二つの技術の進歩により、本当に便利に手に入るようになりました。しかし一方、インターネットに横たわる闇、「匿名の闇」に向き合うことにもなりました。

 インターネットのダークサイド「匿名の闇」は、かつては、人の心の内にだけひそんでいた「ネガティブ・マインド」を一挙にさらけ出すことになりました。ねたみ、うらみ、悪だくみ、欲望、暴力、その他諸々。

 舞台のひとつである「2ちゃんねる」。ウィキペディアによると、このサイトの発端は「交通違反の揉み消し方」という掲示板にあるそうです。インターネットの暗黒面を端的に表わしているように思えます。
 暗黒面に捉われている折、こういった場所に行きたくなるのは、誰しも同じと思います。しかし一方、ふと良心に戻った折、やるせなさや嫌悪感を、誰しもが覚える時があるかと。

 自発的なモラルが形成されるのは、おそらく12~13歳くらいではないでしょうか。ネット接続ツールは年を追うごとに安くなりました。パケット定額の携帯電話を子供が持つようになったのは、2005年前後のように思います。その時分に12~13歳だった子供は、自発的なモラルの形成期に、インターネットの闇の世界と向き合って来たことになります。

 一昨年あたりから、バカッターと言われるような、青年の軽犯罪について耳にするようになりました。これらの根底には、インターネットの暗黒面についての正しい認識の欠如が横たわっているように思えます。

 インターネットの暗黒面が子供たちに及ぼす影響について、そろそろ本腰で取り組む必要が出てきたのではないでしょうか。教育の場で。そして当然に家庭の場で。

保護期間70年を考える

TPPで海外から要求されている項目のひとつに、著作権保護期間の延長がある。現行50年を欧米の著作権先進国並みに、70年に延長せよ、という要求である。今日はこれについて考えてみたい。

 実は「何のための延長か」という点について、本質的なオピニオンがどこからも出ていない、というように私は感じている。

 期間延長(70年)派は「著作権保護のため」「国の農業を守るための交換条件として」など、あまりに大義名分っぽくて実感が湧かない理由を立てている。また現行維持(50年)派は、「日本は著作権の貿易収支が赤字だから」とか「延長すれば孤児著作物(著者不明の作品)を増やす」などという。

 生意気を承知の上で、あえて双方を否定させていただく。私は、著作権の本質、つまり「創作のインセンティブ(モチベーション・アップ)」に立ち返れと考えている。そして「創作のインセンティブ」を本質的にとらえた政策・方策を誠実に実現していくべきだと強い信念を持っている。以下、わかりやすく具体的な説明を試みたい。

 保護期間の延長が誰に利するか。まずそこから考えてみる。

 著作者本人は、没後70年に伸びたとて、果たして孫の代まで保護が要るかと懸念するケースが殆どではないか。
 芥川龍之介一家の例に顕著なとおり、早逝した作家の家族のために、没後も著作権を保護するのは大事ではあるが、いくらなんでも70年は長く感じる人が多いと思う。
 ぐうぜん芥川家は、子の代も文化芸術に身を投じたので、からくも没後の保護期間が「次世代の創作のインセンティブ」につながったが、そういうケースはまれであろう。子供が歌舞伎の名家よろしく文化芸術に身を投じてくれるかどうかは、わからない。

 没後の保護期間延長の恩恵が最も奏功するのは、実は、創作者を周りから支えるスタッフたち、つまり制作工房の人たちではなかろうか。

 著作権というと、ついつい著作者個人の専有物のように信じる人は多いが、実は、職務著作(著作権法第15条)や映画の著作者規定(同第29条)、出版権者の規定(同第79条~)に見られるように、文化芸術を支えていくスタッフ全体に、著作権ロイヤリティの果実を行きわたるような仕組みが、著作権法には込められている。
特許法は、もっと明確に、発明者個人のみならず、企業や研究所全体を考えた上で権利の主体について規定されている。

 プロのコンテンツというのは、小説にしても、音楽にしても、映画にしても、美術にしても、放送番組にしても、作者ひとりではなく、周囲のスタッフの協力があってはじめて世に出るものが殆どである。しかし著作権法の規定では、作者以外にロイヤリティの恩恵にあずかれるのは、「実演家」「レコード製作者」「放送事業者(有線放送を含む)」の三者しかいない。だから、プロの世界では、根源的には作者にのみ発生する著作権ロイヤリティを、著作権譲渡によってスタッフたちにも還元する仕組みがある。

 たとえば、音楽の世界では作詞家・作曲家のほかに「音楽出版社」というのが著作権者になっていることが多い。ぱっと目には「楽譜の印刷屋さん」みたいに見えるが、実はこの音楽出版社が、音楽を支えるスタッフたちへの著作権ロイヤリティの分電盤になっている。

 楽曲は、純粋に作者の発意で作られるものだけではない。後世まで人から愛されるポピュラーソングには、意外とスタッフやスポンサーの発意によるものも多い。ミュージカル、CMソング、番組主題歌、映画音楽、などは顕著でわかりやすい。純粋に音楽アーティストが発表する作品でも、当然に芸能プロダクションやレコード会社など周囲のスタッフが、知恵と手を差し伸べている。広く世に行き渡らせる必然のあるプロの音楽は、アマチュアとは違って、アーティストひとりでは成り立ちにくい。

 音楽出版社が受け取る著作権ロイヤリティは、最終的にこれらの関係スタッフや、作品を最初に送り出した際の、最初の出資者に再分配されていくことが多い。

 ちょっと話がそれたが、保護期間の延長分は、文化芸術の保護者でもある、こういった関係スタッフや、創作工房が、一番の恩恵を受ける当事者になると私は思う。


 私はスタジオジブリが大好きである。ジブリは宮崎さん、高畑さんだけのものではない。「工房」である。しかも、創作について真摯に取り組んでいる工房である。出来上がってくる作品は、どれも味がある。ジブリのような真摯な工房を長く存続させるためには、保護期間の延長は、意義があるもののように私は思う。

 フランスなどは国が文化芸術の存続のため税金を投入しているが、これには、自助努力をしない、堕落した芸術家を生みかねない、という弊害もある。文化芸術に税金を注ぐのもいいが、創作のインセンティブは、税金投入より、著作権ロイヤリティのほうが、効果が大きいと私は思う。

 ここで注意せねば、と思うのは、著作権ロイヤリティの権利が、作者以外の手に渡るケースには、投機目的だけのケースがある、ということである。

 ロイヤリティがキチンとした工房に還元されれば、次の作品として文化芸術が再生産されるが、利ザヤ目的で転売されると、文化芸術の再生産につながらない、という問題が生じないか。キャピタルゲイン(転売益)が主目的の著作権譲渡は、制作工房の荒廃を招くリスクがあると私は思う。

 まとめに入ろう。保護期間の延長は、個人的には、創意や熱意のあるスタッフや工房のためには、非常に有益。ただし、転売益目当ての投機マネーの流入に常に注意を払わないと本末転倒になる。これが私の考えである。

 余談だが、「貿易収支で赤字になるから」という理由は、目先の利益にとらわれ、次世代や国の未来や誇りを捨てているようで、好きではない。

 長い目で見て、「どうせ欧米にキャッチアップできないし、50年でいいや。」というのは、どうもネガティブ指向に思え、世界に通じる立派な作品を作るかもしれない次世代の若者から、バカにされそうな気がする。

優れた工房、そしてスタッフを守り育てることは、非常に有益で大切な事だと私は信じて疑わない。だから、そのための原資としての20年分なら、保護期間延長もやむなしと思っている。

文化予算から日本を考えてみる

かなり古くなってしまったが、文化庁公式サイトにこんな資料がアップされている。

文化関係予算の国際比較

英仏の文化予算が日本の数倍にのぼる、というのは、両国のお国柄から推して測れるし、米国は一見少なそうに見えても、税制優遇によって民間からの寄付で文化が守られていることは容易に察しがつく。カーネギーホールなどは、鉄鋼業で得られた億万の富が文化に還元されたことが、名前から即座にわかる。

この表で気になったのは、隣国・韓国である。日本の1/4程度の人口しかないこの国は、なんと日本の1.7倍ものおカネを文化に注いでいる。この膨大な予算の背景は、ウィキペディア韓流」にわかりやすく記述されている。ぜひ一度ご参照いただきたい。彼らは深刻な通貨危機に直面し、国策として文化コンテンツの輸出に命運をかけたのである。その果実として、彼の国は、テレビドラマを通じ、我が国の奥様方から、多大なお布施を集めることに成功した。

ちなみに文化予算には大きく二通りある。文化財維持に係る予算と、芸術文化振興に係る予算。日本(つまり文化庁)の文化予算の内訳は、以下のサイトで知ることができる。

国の文化政策

国立美術館運営費等というのは、実質、文化財保護のほうにかなり近いことを考えると、実質的な芸術文化振興予算というのは、たかだか230億円程度であるということがわかる。富士山や和食文化がユネスコ文化遺産に選ばれたのはとても喜ばしいことだが、この程度の予算で、果たして「日本は文化の国」と世界に言えるのだろうか、と落ち込んでしまう。

でも私は、日本の文化コンテンツが大好きだ。小説、映画、音楽、絵画。どの分野にもたくさんのお気に入りがある。これらのすばらしい日の丸コンテンツは、実はほとんど、民間の資力、つまり商業ベースで生み出されているのである。

それは本当にすごいことなのだと思う。娯楽系コンテンツはもちろん、一般受けしないような難しい教養系コンテンツでも、日本にはしっかり愛好者がいて、国に頼ることなく、民間レベルで経済的に支えてきた。非常に高価な学術書でも、ぶつくさ言いながらも、買っては喜んで読むような人が、日本にはまだ結構いるのであろう。世界に誇れるような民度の高さではないか。

知的財産権分野の著名な弁護士であり、一流の文化人でもある福井健策氏が、さきごろこんな論説を出された。

知のインフラ整備とデジタル著作権の挑戦


相変わらずハコモノに予算をかけるより、「日本文化の総カタログ」を、国の威信をかけて作れ、というお説。大いに拍手を送りたい。文化総カタログは、海外のバイヤーには相当便利なしろものである。政府が保証する日本文化の総カタログ。夢のある話ではないか。

モノづくりの生産拠点が日本から移っていく今後、日本は、「すぐれた文化」とか、「豊かな自然」とか、「精緻な技術」とか、「独自の発想力」、そういった「良いイメージ」を海外にどんどんアピールし、「日本ブランド」を確立していく。そんな夢を描けるならば、非常に先々が楽しみになる。福井先生、応援いたします。ぜひ頑張ってください。

最後に。民間ベースで文化を維持していくには、文化産業の担い手たちに、都度払いでギャラを払うだけではやはり成り立たないのだと思う。出来高払い、つまり著作権ロイヤリティによるインセンティブをしっかり維持しないと、担い手のモチベーションが薄れていくし、担い手としての誇りも育たない。国の文化予算は、おそらく一時にドバっと増額することはない。文化コンテンツを買い、出来高払いのお布施を続けることは、大好きな作品の担い手を守り育てるためには、今後も大事なのであろう。

今夜は久々に「となりのトトロ」を見ることにします。この作品に描かれた日本のふるさとの風景。私は日本のみならず世界クオリティの美しさと思うのです。