音楽とか文化とか

その時々に考えたことをとりあえずメモしています

とあるマスターと宮川泰さんと

今から10年ほど前。大阪でとある初老の元ドラム奏者と出会った。
彼は大阪城にほど近い京橋で飲食店のマスターをされていたが、店内にはそのマスターがドラマーとして活躍していたころの写真が一杯飾ってあった。

番組終了後にスタッフ全員で撮影したようなスナップショットで、仁鶴さんや間寛平さんと共にマスターが写っていた。まだ在阪キー局が生番組でミュージシャンを起用する予算が潤沢にあったころに、マスターが一流のプロとして電波の中でも活躍していたことが見て取れた。

マスターとはビジネス目的で会ったのだが、私自身が妙にマスターの人柄に惹かれたこともあり、一通りビジネスの話を終えたのち、プロドラマーだった折の昔ばなしを聴くことができた。まだ大阪が経済の都だったころの華やぎが伝わってくる話ばかりで、いずれも興味深かったが、その中でも、特に心に残ったのが、梅田コマでの話だった。

1960年代のことだろう。当時、美空ひばりの大阪公演が梅田コマで行われていた。ご存知のように梅田コマは単発公演用のハコではなく、同じ演目を何回も繰り返し公演するハコである。当時の彼女の人気ぶりがうかがえると同時に、そこでドラムの仕事を得たマスターの実力と、当時は羽振りが良かっただろうことが、それだけでも伝わってくる。

心に残ったのは、その梅田コマでのひばり公演を終えた後の話であった。
当時、美空ひばりは多忙を極めていたせいか、録音のため東京に戻る時間すらなかったらしい。そこで公演がはねたあと、そのままオケとスタッフを残し、舞台で録音をするという恵まれた仕事があったそうな。当然当時は今のような恵まれた機材などあろうはずはなく、2チャンネルの一発録りだった由。

マスターの話を拝聴しつつ、ダブルもといトリプルヘッダー公演での疲れをものともせず、深夜の一発録りに全神経を集中する当時の「プロ意識」や「音楽への情熱」のすごさに思わず唸ってしまったが、そこでタクトを振ってたのが宮川泰さんだったと聞いて、絶句するような衝撃を受けた。

高度成長期に活躍した日本の音楽作家には、舌を巻くような「ド天才」がたくさんいたことに気付いたのは、20代後半のころだったろうか。その中でも郷里・関西に縁の深い宮川さんは、自分が宇宙戦艦ヤマトにワクワクした世代だったことも手伝って、ひときわ親しみとあこがれを感じていた。

1990年代、宮川さんは紅白歌合戦蛍の光のタクトを振ってられたが、そのコミカルな動きに隠された、ものすごい知性に気付いた折にも衝撃を受けたので、宮川さんには、二度に亘って衝撃を受けたことになる。

宮川さんの作品には、顕著なカッコよさがあることを、学生時代に軽音楽部の先輩から教えてもらい、宮川作品を採譜する折にふれ、なるほどなあ、と感じていたのだが、その宮川さんも、決して自身のエスプリを発露するような仕事だけではなく、さまざまな仕事、自身の本来の作風とは違う仕事でも、プロとして、全神経を集中し、誠実に取り組まれていたのだな、と、梅田コマのエピソードを聞いて、感じ入ってしまったのである。
そして才能に溺れることなく、音楽を通じ聴衆に喜びを伝えることにひたすら打ち込まれた謙虚さに心底、参ってしまった。

そんな宮川さんとじかに接したからだろうか、マスターもとても謙虚な方だった。そして真摯に音楽が好きだった。最後にマスターに質問した。「プロドラマーとして成功されたのに、もう演奏活動はされないのですか?」と。

マスターは答えられた。「俺は音楽が素晴らしかった時代に生き、十分に良い経験をさせてもらった。若い世代に道を譲ろうと思ったんだよ。」と。

あれからもう10年。宮川さんも亡くなった。今でもふと、新幹線に飛び乗り、京橋のマスターに会いに行きたくなる。お元気で居られるだろうか。


第21回 宮川 泰 氏 | Musicman-NET